輝く闇夜のハンバーグ
確証はない。
ただ助手席のシートが冷たくなかった、それだけ。
急な仕事で出社していた夫の車に、大通りでひろわれた。
もう日も暮れかけて肌寒い。だけど昼間はお天気がよかったから、だからシートも日だまりに温められていたのかもしれない。……会社の駐車場は地下にあるのに?
「病院の帰り?」と夫が聞き、「そう」とわたしは短く答えた。
車の外は、降りそうで降らない、うっとおしいお天気加減。

昨夜のことだった。
夕食を終えた夫が、
「もう子供のことはあきらめよう」
と宣言した。
夫の話はまだ「君もよくがんばった」だの「そういう夫婦もあるさ」だのと続いたが、そのほとんどをわたしは理解できなかった。
もう苦しく辛い治療のために遠い産婦人科へ通わなくてもいいんだ、という安堵の気持ちと、わたしはもう子供を産まないんだ、という不思議な違和感が、まるで泥酔した血液のように体中を駆け巡っていた。
産まない、繁殖しない、ただそれだけのこと。
その夜、夫は早々にベットに入り、わたしの肩にさえ振れずに眠ってしまった。

初めて電話がかかってきたのはいつのことだったかしらん。
彼女はひどく勝ち誇った様にこう言った、
「あなたの夫の子は、わたしがきっと身ごもってみせる。そのときは、あなた、すぐに彼と別れるのよ。もっとも、今すぐ別れてくれたって、わたしはちっとも構わないんだけど」
だけどわたしは別れずに、その電話のことを夫に問うことさえもせずに、今日まで見て見ぬふりを続けてきた。
ただ、夫がそこまで子供を欲しがっていたとは知らなかった。

今日は産婦人科に最後の挨拶に行った。
「4年間もの間、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「……ご主人には、あのこと、お話なさったんですか?」
うつむいたまま、わたしは小さく微笑みながら首を振った。
「不妊の原因は、むしろご主人の方にあるかもしれませんね」そう言われ、夫にも検査を受けるように薦められていた。
だけどわたしはその事実を夫に告げなかった。

きっと今日は彼女と別れ話をしてきたに違いない、と思った。
二度目の電話が、一週間ほど前にあった。
「わたし、妊娠しちゃったの。もちろん彼の子じゃないわ。あの人、わたしにまで不妊の検査を受けさせようとしたのよ! 冗談じゃない、なんであんな男のためにわたしが、治療を受けてまで妊娠しなきゃいけないの。で、次の男にめぼしいやつを物色してたら、できちゃった。あなたも大変ね。ま、せいぜいフウフエンマンをがんばってちょうだい。彼はあなたにお返しするわ。じゃあね」
対向車のライトに照らされる夫の横顔に、ときおり思い詰めた表情が浮かぶ。

渋滞を抜け、ようやく住宅地に入った。わが家も近い。
窓の外が妙に明るい。
見上げると、小さな空には闇しかなかった。
月も星も出ていないのに、こんなに明るい夜がある。
すこし、こころねに温かみが戻ってきた。
「晩ごはん、昨夜のシチューでいい? 今朝、ハンバーグだけは作ってあるから、それ、焼いて、」
「ハンバーグかぁ、よし、急いで帰ろう」
「やだ、急がなくったって、もう五分とかからない距離じゃないの」
「いいや、気分だけでも急ぐ!」
ばかねぇと笑うと、夫も、ばかだよなぁと笑った。
