白濁色の孤独
小児マヒだった妹に、夫を寝取られた。
生後四ヶ月で小児マヒを診断された妹は、以後、ずっと母の関心を独り占めにし続けた。
「だって、美優ちゃんは独りにできないんだもの。お母さんがいなくちゃダメなのよ」
ってのが母の口癖だった。
実際には、妹は、歩き始めこそ二歳までかかったものの、あとはそう目立ってマヒしているわけじゃなかった。小学校だって公立のフツーの学校になんら苦労なく入学できたほどだ。
だけど母は、
「お母さんは美優ちゃんの心配で忙しいのよ。紗恵はもう何でも自分でできるでしょ。ひとりでもだいじょうぶでしょ」
いつもわたしに「独り」を強要した。
父は、そんな母に愛想をつかしたのか、わたしが十三、美優が九歳になった秋に家を出たまま帰ってこない。愛人がいたらしい、と母は泣きもしなかった。
だけど、もともと精神の弱い人だった母は、美優が成人するのを待っていたかのように他界してしまった。最後まで、わたしの婚約者に会おうともしないで。美優の結婚だけを気に病んで。

あなたと美優との関係を知ったのは、五ヶ月ほど前のこと。
夕食を終えたあなたは、ゆっくりと新聞を手にし、そのまま、開こうともせずに手の中を見つめていた。
「——あなた?」
わたしの問いかけに、顔も上げずに、こう応えたわね、
「美優ちゃんが妊娠した」
どうしてあなたがそんなことをそんな顔してわたしに言うの。
「ぼくの子、なんだ。——すまない」
どうしてあなたの子を、妹が妊娠するの。
「美優ちゃんを独りにはできない。美優ちゃんには、ぼくがいなくちゃダメなんだ」
……あなたまでそんなことを言うの、なぜ?
「わたし——……」
わたしにだって、あなたは必要な人なのよ。そう言おうとしたけど、あなたは聞いてはくれなかったわね。
「ごめん」
あなたはそのまま、手近な荷物だけ持って、行ってしまった。このマンションのすぐ隣にある美優の部屋に、あなたは「ただいま」と言って帰るようになった。
わたしの救いの手を待っているふたり。わたしから許されることだけを願っているふたり。待っているだけの、ふたり。
わたしはいつもひとりで。美優はいつもふたり。

ツーツーツーという無機質な音に我を取り戻した。
わたしは、左手に握ったままだった受話器をそっと電話台に戻した。
居間のコーナーに置く電話台を探して、あなたとふたりで何軒も家具屋を巡ったわね。
——けど、これを決めたのは美優だった。
美優の誕生日に、三人で食事した帰りに立ち寄った家具屋で買ったのだ。
電話台の棚には扉はない。そこは、小さなゲージの指定席になっていた。
ハムスターをつがいで買ってきたのはあなただったわね。
「子供なんかできなくったっていいじゃないか。楽しみなら、ほかにいくらだってある」
そう言って、小さな二匹の命を手渡してくれたあなた。
五年も子どもができないことを苦にして、でも産婦人科に受診することを踏ん切れずにいたわたしに、あなたは優しく言ったのよ、
「いいよいいよ、子どもなんかいらない。ぼくらはふたりで十分しあわせだよ」
ウソつきね。
カレンダーを逆さまにたどっていくと、あなたが美優を妊娠させたのは、ちょうどあの頃。わたしが、あなたの愛を確かなものだと誤解していた、あの頃に行き着いてしまう。

あなたが美優のところへ行ってしまってから一週間目に、ようやくわたしはハムスターのことを思い出したけど。
でも、そのときにはもうゲージの中にいるのは、一匹と一個、になってた。
まるでトラの毛皮の敷物のように薄っぺらになったハムスターが一個と、わたしの気配を察知してか、もうすっかり湿り気をおびて汚れきっているワラ屑の下から顔をのぞかせたハムスターが一匹。
こんなになるまでエサを与えなかった自分を責めたり、食べられてしまったオスに申し訳ないと思ったり、残りのメスを大事にしようと反省したりなんて、そんな気持ちは微塵もおこらなかった。
ただ、掃除をしなきゃいけない、と思った。
掃除をする間、邪魔になるメスを別の入れ物に移しておかなきゃいけない。
わたしは、キッチンの戸棚から、インスタントレモンティの空き缶を取ってきた。
ゲージの横に置いてあった軍手を右手にはめて、彼女を掴み、その缶の中に投げ入れた。
彼女は、突然の変化におどろいて、缶から脱出しようと必死にもがいている。
ばかね。出られるわけないのに。
けれどわたしは、そんな彼女の入っている缶に、蓋をした。
わたしはゲージに向かい、まずそれを、アルミの格子の部分と、プラスティックの受け皿の部分に分解した。
中身のなくなったハムスターの死骸と対面することになったが、不思議と気持ち悪いとは思わなかった。
メスに食べられながら、何を思っていたのかしら。死に顔は、なにも答えてはくれなかった。肉のほとんどない顔まで、すっかり食い付くされていたから。
わたしは、スーパーのビニール袋に受け皿を突っ込んで、そのままザザッとワラ屑やらエサ箱やらを落とした。毛皮になったオスも、いっしょに落ちた。
明日が可燃ゴミの収集日でよかった。
ゲージ自体は、浴室でシャワーの水をかけるだけで、ほぼきれいになった。
雑巾で水分をぬぐってやると、まったくきれいになってしまった。
わたしは満足して、空っぽのゲージを、電話台の下の棚に戻した。
ものの五分もたってないっていうのに、こんなにもきれいになるものだったんだ。と、自分のものぐさを少し反省した。
思い出してレモンティの缶を振り返った。
が、まったく音がしない。
逃げられるわけがないんだから、いるはず。なのに音がしないってことは、もしかしたらもう死んでしまったのかも。
わたしは、この五ヶ月間、くる日もくる日も死を望んでいた。
美優の胎児が死んでしまえば、夫は戻ってくるに違いない。美優が死んでしまえば、夫とまたふたりになれる。——けれど裏切った夫も許してしまいたくはない。夫もいっしょに死んでしまえばいい。わたしを独りにするものは、みんな死んでしまえばいい。——それとも、わたしが死ぬべきなの? わたしがいなくなれば、夫と美優は、きっと可哀想にと涙するだろう。そして、ふたりで幸せになるのだろう。いや、今はもう三人ね。
そっと蓋を開けると、汗で全身濡れネズミになった彼女が、ぱっと顔を上げてわたしを見た。そしてまた、手足をばたつかせて、出てこようともがいている。
わたしは、彼女が元気で生きていることに、少しがっかりした。

玄関のチャイムが鳴った。
「警察のものです。お迎えにあがりました」
若い男の声がわたしを呼んでいる。
「はい、今行きます」
わたしは、電話台の下にいるゲージの中の彼女に少し多めのエサを入れてやった。
手を洗って、ハンドバックを持ち、用意しておいた靴をはいて、玄関のドアを開けた。
「行きましょうか」
美優は、わたしの無言の抵抗が影響してか、七ヶ月で早産してしまった。
いい気味だ、と思った。子どもなんて、流れてしまえばいいのよ。
——でも、赤ん坊は生きていたわね。
あなたが電話で知らせてくれた。
「美優が、たった今、出産したよ。女の子だ」
だけど赤ん坊は未熟児で、すぐに専門の病院に移されたんだと言っていた。
あれから一ヶ月。
そう、今日は赤ん坊がやっと退院できるめでたい日だったわけね。
だから、ふたりで揃って、仲良く車に乗って、あんなに楽しそうにはしゃいで。
なのに、赤ん坊に会わないままに、交通事故に巻き込まれてしまったのね。
そんなにも、わたしを独りきりにするの?

霊安室につくと、だれかがわたしに言った、
「この子が、妹さんたちの忘れ形見ですよ」
あなたたちの遺体を前に、わたしは初めてあなたたちの子を抱いたのよ。
赤ん坊は機嫌の悪そうな顔をして眠ってた。
小さな肉のかたまりは、見かけよりもはるかに重くて、それがそのまま存在感の大きさのように思えた。
わたしの腕の中にある確かな存在感。それは、なぜかわたしに、「この子を独りにしてはいけない」というとても強い使命感を与えていた。
