木蓮の花の咲くころ


死に行く者のくちびるに
そっとくちびるを重ねましょう
そのとき彼のくちびるは
冷たい? それとも熱い?
血の味がするかしら
死の味はするかしら……


* * *

セキセイインコの脚がとても温かかったよ、と少年は言った。
そりゃそうよ、インコだって生きてるんだもの。と応える茉莉子に少年は、
「そうか、——そうだよね」
と、小さく笑った。
あのとき(いや、少年はいつも小さくだけ笑う)の少年の微かな笑顔が、茉莉子の心に揺れている。
待ってね、待っててね、
走りながら茉莉子は、何度も心につぶやく
——自分の中にいる笑顔の少年にむけて。今、苦しんでいるであろう病室の少年にむけて。

* * *

その日、茉莉子に愛を告げた少年は、
「ぼく、もうすぐ死ぬんだよ」
と、ほほ笑んだ。
「だから。死ぬときはきっと君を呼ぶから。……それまで少しの間、ぼくとつき合ってくれませんか」
少年は、首まで真っ赤になりながら、言った。
シャツの袖口から伸びる白い華奢な手が震えている。
いや、震えているのは手だけじゃない。
短く刈られた色素の薄い髪もまた、さらさらと小刻みに揺れていた。
「うん、いいよ」
うつむく少年の頭をじっと見据えながら、茉莉子は応えた。
「そのかわり。きっと叶えさせてね、わたしの夢」
少年は、大きくしっかりと一度だけうなずき、そして、
「ぼく、笹本圭一。じゅうろく……」
弱々しいソプラノボイスで自己紹介をはじめた。

*

「茉莉子ぉ!」
「なになにちょっと、聞いたわよッ」
次の朝。教室に入るなりクラスメイトたちの声におそわれた。
教室中の視線が、茉莉子につき刺さる。
なんだか今朝はやけに窮屈だと思ったら、
「ねー、なんでこんなに人がいるの」
「ばかね、みんなあんたの話が聞きたくて集まっちゃったのよ」
よそのクラスの生徒まで。
物好きな人たち、と周囲を見渡す茉莉子に、広美がつっかかってきた。
「とうとうオトコができたんだって?」
「うん」
あっさり応えると、あちこちでため息がもれた。
「目撃者の証言によると、そいつ、めちゃくちゃ軟弱な奴だって?」
集団の中から声が響いて、萩尾浩太が現れた。
「なによ、目撃者ってだれ」
「ふん。オレだ」
「やだ、コータ、あんた見てたの? やらしーいぃ」
「ばかやろう。見たくて見たんじゃねぇ、見えちまったんだよ」
「ああああぁ、もう! くだらないケンカは後にして!!」
体ごと割込んできた広美は、
「で、茉莉子。ここいらへんにいる男子たちのかわりに聞くわ。あんた、そのオトコのどこが気に入ったの?」
ワイドショーのリポーターを気取ってか、グーの手を茉莉子の口元につき出している。
胸まであるストレートヘアをそっと背中に払いやりながら、茉莉子は答える。
「……彼、キスさせてくれるって」
「きすぅ? ——ってまさか、アレ、本気だったの!?」
また集団がざわめきたった。
「わたしはてっきり、こーゆーうるさい男子どもを追い払うための策略だと、」
「ばっかじゃないのか」
広美のつぶやきを、浩太がさえぎった。
ギッとにらむ茉莉子を叱るように浩太は、
「いくら青白い顔をしてるからって、そう簡単に死ぬかよ」
「そうよ、茉莉子。いくらなんでも、それって彼の死ぬのを待ってるみたいで悪いわ」
広美も、すっかり顔がマジになっている。
「んー。でも彼、もうすぐ死ぬんだって言ってたよ」
だれも、応えない。
「今朝早く彼のお父さんから電話があってね、彼、また病院に戻ったって」
「あんた、まさか、」
広美は言葉をつまらせる。
「放課後、お見舞いに行く約束したんだ。デートだねっ」
茉莉子のはしゃいだ声が、しんと静まった教室に明るく響いた。

*

そこには、わずかな花と小さな鳥かごがあるだけだった。
病室はあまりにも白すぎて。
その白に溶けた少年が、ひどく不確かな存在に思えた。
「来てくれたんだね、どうもありがとう」
昨日よりもさらに弱々しい声で、少年は茉莉子をむかえた。
「気分、悪くない?」
会ったばかりの少年に何を話していいかわからなくて、茉莉子はとりあえずそう聞いた。
「大丈夫、話をするくらいなら平気だよ」
少年の笑顔はとてもきれいで。茉莉子もつられてほほ笑んでしまう。
「あ。大丈夫じゃいけないんだよね」
ふいに少年は言った、——笑顔のまま。
「茉莉子ちゃんの夢を早く叶えてあげなきゃ」
彼が死ぬのを待ってるみたい、と言った広美の言葉を思い出す。
「そんな……」
茉莉子が返事に困っていることなどまるで気にしていない様子で、少年は、
「ぼく、死ぬことはちっとも怖くないんだよ。今だって、生きているとは言いにくい状態だしね」
まるで、他人事のように話す。
「生まれたときからずっと病院暮らしで。たまに外出してもすぐまた逆戻り」
少年は、サイドテーブルに置かれた鳥かごからセキセイインコを手に乗せ、取り出した。
「ぼくの母親はぼくがまだうんと小さいころに死んだらしいし。父親は仕事が忙しくてなかなか顔を見せない」
インコを見つめる少年の目はとてもやさしい。
「だから。ぼくの話相手はコイツだけだ」
白地に薄いブルーとグレーの模様がある。
少年の手の上でインコは、ピピピと小さく鳴いた。
指でそっとインコの頭をなでてやりながら、
「羽を切ってあるからね、飛べないんだよ」
少年はよりやさしい声で言う。
「かわいそう」
そう茉莉子が言うのと、少年が、
「ぼくと同じだね」
と言ったのと、ほぼ同時だった。
「どうして?」「だれが?」
また同時に口を開いたのがおかしくて、お互いに顔を見合わせて、笑った。もちろん少年はクスッとたけだったけれど。
それから少年は、たくさんインコの話をしてくれた。
小鳥のくせに猫のようにじゃれたがること。いくら言葉を教えてもちっとも話してくれないこと。小さな体なのに、か細い脚さえも温かいこと……
そして。
茉莉子の「なぜ」は、とうとう少年には答えてもらえなかった。

*

「今日はオレも行くぞ」
とうとつに浩太が宣言した。
やめてよ、と追い返す茉莉子をかわしながら、とうとう少年の病室まで来てしまった。
「こんにちは」
そっとドアを開ける茉莉子を押しやってドタドタと入り込んだ浩太は、
「っよ!」
妙になれなれしい。
浩太を見た少年は、しかしパッと破顔した。
「コウタくん! ひさしぶり!」
「なになに、ちょっとぉ。知り合いなのぉ?」
わけがわからなくて二人の顔を交互に見比べる茉莉子に少年は、
「茉莉子ちゃんの夢のこと、彼から聞いたんだよ」
「コータに?」
少年は、にっこりとうなずく。
「去年、オレ、部の試合中に大ケガしたことあったろ」
「ああ。ボールを蹴るつもりが間違ってゴールポストを蹴っちゃって、足首の骨にヒビ入れちゃったって、アレね」
茉莉子と浩太の会話に、少年はクスクス笑いをもらしている。
「——……まぁ、いい。とにかく。そのときの病院通いでコイツと知り合ったんだ」
「ふぅん」
「あのときは楽しかったなぁ」
少年はなつかしそうに言った。
「毎日。コウタくんが来るのを今か今かとずっと待ってた。コウタくんの話を聞きたくってね」
「そうそう。んで、あんまりコイツがべったり離れねぇもんだからさ、オレ、てっきりコイツはオレに気があるに違いない、なんて思って」
「ばっかぁー」
笑い合う茉莉子と浩太に、少し遅れをとって少年も苦笑いしながら、
「そうだね、恋しいと思っていたことは事実だから。もしかしたら危なかったかもしれないよ」
なんてまじめな顔して言うものだから、浩太はちょっと表情をひきつらせた。
ひきつった顔のまま浩太は、とんでもないことを言い出した。
「で? おまえ、死ぬんだって?」
「うん、もうすぐね」
少年は、言い切った。
あっけにとられている茉莉子を無視して、ふたりの会話は続く。
「茉莉子に約束したんだってな」
「うん、したよ。かならず、茉莉子ちゃんの夢を叶えてあげるって」
「そうか……、がんばれよ」
「うん、がんばるよ」
死ぬって話にがんばるも何もないものだ、と茉莉子は思ったけれど。少年たちはとてもにこやかだった。
と、少年がふり向いて、言った。
「いいなあ。ぼくも元気だったら、浩太くんみたいに茉莉子ちゃんとずっと一緒にいられるのに」
やだなぁ、コータとわたしは『ずっと一緒』なんかじゃないわよ。
——そんな茉莉子の反論は、少年の耳には届いていなかった。
小首をかしげると、何も言わずに少し口をとがらせている浩太の横顔が見えた。
「ああ、すっかり暗くなっちゃったね。コウタくん、茉莉子ちゃんをしっかり送り届けてあげてね」
少年の言葉に窓を見た。
星のない夜空に、木蓮のつぼみが白く浮かんで見えた。

*

少年は、鳥かごをながめていた。
少しして、茉莉子がいることに気がつくと、いつもより一層はかなげな笑顔を向けて、言った。
「インコ、逃がしちゃった」
「どうして?」
茉莉子は、なぜだか、少年が故意にインコを外に出したのだと確信していた。
少年は、やはり笑顔のままで、
「わからない」
ぽつりとつぶやいた。
長い長い時間。
少年はインコのいない鳥かごを見つめていた。
茉莉子は、そんな少年を、病室に入ってきたままの格好で、じっと見ていた。
「……インコが、かわいそうだと思ったんだよ」
やがて少年は、かすれた声で言った。
「せまい鳥かごの中だけじゃない、世界はうんと広いんだ。それをインコに教えてやりたかった」
茉莉子は、応えなかった。
「でも、ぼくは知っていたはずなんだ。……切られた羽も十分に伸びきっていない小鳥が、ひとりで外で生きていけるはずがない。知っていたのに、わかっていたのに、ぼくはどうして」
少年の瞳が涙にうるんでいる。
圭一くんも、ココを飛び立ちたかったんだよね。
でも、茉莉子はその言葉を口にしなかった。
かわりに、黙ったまま、そっと少年のやわらかな茶髪をなでた。両手で。両の指先から愛しさの伝わることを祈りながら。
「茉莉子ちゃん、」
鳥かごを見ていた少年が、そのまま茉莉子に目をむけることなく、抱きついてきた。
ただ驚いている茉莉子に少年は、
「今じゃだめ? ぼく、今、茉莉子ちゃんにキスしてほしい」
……泣いていた。
茉莉子は、必死にすがる少年の腕をふりほどき、ごめんねごめんね、とくり返した。
「——そっか、そうだよね。茉莉子ちゃんは『生きているぼく』には興味ないんだものね」
少年がさびしそうにつぶやいても、
そうじゃないの、ちがうの、ちがうの、……
長い髪を揺らしながら、頭を振り続けるだけだった。

*

次の日、だった。
数学の授業中、担任が教室に駆け込んできた。
「佐山くん、笹本圭一さんが危篤状態だと電話があった」
お弁当のすぐ後、午後の微睡みにはもってこいの授業。茉莉子はまた、夢でもみているのかと思った。
「笹本さん、知り合いか? どういう関係なんだ、親類じゃないんだろう、」
担任が、何かごちゃごちゃわめいている……
「茉莉子ッ、しっかりしろ、ほら、行くんだよッ!」
浩太の声が電流となって茉莉子のカラダを駆け抜けた。
「……圭一くん」
ハッとして走り出した茉莉子の背中に、担任はまだ何か叫んでいた。
——だめよ、圭一くん。まだだめ。まだまだわたし、あなたと話したいことがたくさんあるの。
だから、お願い。
待ってね、待っててね、

*

茉莉子ちゃんのためじゃないんだよ、ホントは。
少年は、酸素マスクを無理矢理はずして、そう言った。
さぁ早くキスして。と少年は言うが、茉莉子は動けなかった。
「……だめよぉ、だめだよおぉ、」
もう少年の顔には血の気などまったくなくて。
茉莉子は、こわかったのかもしれない。
「ボ、クノ、タメニ、……オネ、ガ、イ、きす、シ、テ……」
看護婦たちは、もう、ただじっと立って計器類を見守っているだけだった。
少年の枕元に立つ医師が、茉莉子に大きくうなずいて見せた。
一歩一歩、少年の横たわるベットににじり寄る茉莉子。
「けいいちくん」
少年のすがるような瞳を見て、茉莉子は一瞬たじろいだが、すぐにギュッと固く目を閉じて。そして顔を近づけた。
くちびるが触れ合って2秒。
茉莉子の耳元で、計器類の音がひとつになった。
そおっとくちびるを離すと、少年はもう、苦しんでいなかった。
医者が、どうもありがとう、と茉莉子に例を言った。
少年の父は、まだそこにいなかった。
小さな鳥かごは、隅に追いやられて、あった。
茉莉子は、泣かなかった。
茉莉子は、生きていた少年の方が好きだった、と、もう生きていない少年を見ながら、思っていた。
木蓮の真白な花たちが、ほら、窓の外で知らん顔してるね——

* * *


死に行く者のくちびるに
そっとくちびるを重ねましょう
あのとき彼のくちびるは
温かかった? それとももう?
あれは命の味だったのかしら
あれが愛の味だったのかしら

