海のむこうからきたアオムシ

 海の見える病室。
 うめ立て地に新しく建てられた県立病院の4階に、シンヤはいます。
 もう何ヶ月になるかな、——ずいぶん前からシンヤは、ママと看護婦さんとお医者さんにしか会っていません。
 シンヤは毎日、窓からの景色をながめてすごしています。
 病院と海との間には、空き地しかありません。
 広い広い空き地に、まっすぐでキレイな道路が横に4本、たてに3本通っています。
 ふた月ほど前、その一区画で工事が始まりました。
 大きなトラックやショベルカーやミキサー車やクレーン車も来ました。
 毎日たくさんの人が来て、あっという間にそこに、骨だけの建物ができました。2階建てです。
 何をつくっているのかは知りません。だれにも聞きません。できてからのお楽しみだ、とシンヤは思っています。


 風の強い朝でした。
 シンヤは、ガチャガチャとうるさくブラインドのゆれる音で目を覚ましました。
 病院のエアコンは、夜7時になると切れてしまうので、シンヤはいつも窓を開けて眠っています。
 ウオオオーンという風のうなりが聞こえます。
 時計の針は午前5時。
 夏の空はもうすっかり明るくなっています。
 ブラインドを全部上まで上げてしまって、シンヤは窓辺に立ちました。
 いつもより大きな波にゆれる海をながめました。
 そして、波の合間に何かが、浮かんでは沈むのを見つけました。
 何だかわからないそいつは、やがて堤防を乗り越え、空き地を横切って、まっすぐこちらに向かってきます。
 大きなイモムシだ、とシンヤは思いました。
 大きいったってトラックよりはぜんぜん小さいし、散歩してるおじさんよりもまだもう少し小さい、おじさんをひっぱっている犬よりは大きいくらい。
 けど、そんな大きなイモムシなんて見たことなかったから、シンヤはとても驚きました。
 イモムシは、おじさんのすぐ後ろを通りましたが、おじさんは気づいていないようです。犬がふり返ってうなるのを、面倒くさそうにひっぱって行きました。
 イモムシはどんどん進んできて、やがて病院のベランダの陰にかくれて見えなくなりました。ここからベランダには出られないんだよね、くやしいな。——なんて思っているうちに、シンヤの立っている窓のすぐ外にひょこっと顔を出しました。イモムシの目が、シンヤを見つめてニコッと笑いました。
 シンヤはとてもびっくりしたけれど、でも、なんだかとてもうれしくて、急いで網戸を開けてやりました。
 イモムシは、もそもそもそっと窓を乗り越え、入ってきました。
 そしてもっともっとおどろいたことに、
「やあ、おはよう。悪いんだけど、水を1杯もらえるかな」
 と、言いました。
 しゃべるイモムシだあ!!
 シンヤは自分のコップに水をくんで、イモムシに差し出しました。
 イモムシは、その短い足たちで器用にコップを受け取り、ぐぐぐ……と一気に飲みほして言いました。
「ありがとう。ああ、やぱり塩からくない水はおいしいなあ」
 シンヤがたまらずに、
「ねえ、キミはだれ? どこからきたの?」
 そうたずねると、その言葉を待っていたかのようにイモムシは、静かに話しはじめました——。


 これでもね、ぼくはアオムシなんだ。モンシロチョウの幼虫なんだよ。
 ぼくが生まれた海のむこうの広いキャベツ畑には、たくさんのアオムシがいたよ。
 そこでぼくは、あまり幸せじゃなかった。
 普通モンシロチョウって、キャベツがあったら、葉っぱの上に卵を生むよね。あたりまえだよ。
 だから、ぼくの卵はきっと、風か何かで運悪くポトリと落ちちゃったんだろう。いや、落ちた卵から生まれることができたんだ、運がいいと思うべきかな。
 生まれたてのぼくは、おなかをすかせて、一生懸命キャベツにはい上がったよ。
 そして仲間を見つけてあいさつしたんだ、
「やあ」
 ってね。
 アオムシ同士なかよくなれるはずだった。
 ところが、そいつは言ったね、
「なんだよ、おまえ。くるなっ、あっちへ行け!」
 わけのわからないまま、ぼくは別のキャベツに上った。
 けど、そこでも出会ったアオムシに「やあ」ってあいさつしただけで、追い出されたよ。
 7、8回もそんなことをくり返したかな。
 くやしいやら悲しいやらでもう次のキャベツに上る気力がなくなっちゃってさ、——おなかもペコペコだったし——ぼくは地面の上で途方にくれていた。
 すると、声がしたんだ。
「そうだよ、土の上で生まれたおまえには、そこが一番おにあいさ」
 見上げると、あちこちにキャベツの上から、たくさんのアオムシたちがぼくを見て笑っていた。
「どうして? ぼくもアオムシなんだよ、キャベツが食べたいよ」
「ふん! おまえなんかアオムシなものか。アオムシはな、みんな葉っぱの上で生まれるもんだ。おまえみたいにドロにまみれたりしないのさ」
 だれもぼくのお願いをきいてくれるアオムシはいなかった。
 ——同じアオムシなのに。そんなの、見ればわかることなのに!!
 めそめそ泣いているぼくに、
「うるさいなぁ。そんなに食べたいんなら、その辺に落ちてる葉っぱでもかじるんだな」
 そう言い残して、アオムシたちはキャベツの中に消えていったよ。
 しかたないじゃないか。
 ぼくはとりあえず、一番近くにある『おちてる葉っぱ』のところへ行ってみた。
 キャベツの外側の葉っぱが開いて、地面に垂れ下がってきてるんだ。
 濃い緑色をしたその葉っぱは、とても固かった。
 それからぼくは、地面をはいながら、あっちのキャベツの下、こっちのキャベツの下、と渡り歩いて固い葉ばかり食べた。
 どのキャベツの下に行っても、みんな、見て見ないふりをするだけで、だれも、助けてくれるどころか、声をかけてもくれなかった。
 そんなある日、キャベツ畑にハチがおそってきた。
 アオムシサムライコマユバチっていうアオムシのからだに卵を産みつける寄生虫。
 卵はアオムシのからだの中で生まれて、アオムシをからだの内側から食べて大きくなる。アオムシはチョウになれないまま、死んでしまうんだ。
 あの大襲撃で、ほとんどのアオムシがやられてしまった。
 ぼくはキャベツの下でじっと見ていた。
 あいつらも、地面の上にいるぼくを、アオムシだとは思わなかったのかもしれない。
 たくさんのアオムシが死んで、キャベツの上のやつらにも、ぼくをいじめる元気がなくなったみたいだった。
 ぼくは、今までの分を取り戻すように、どんどん食べたよ。
 まだ黄緑色の若い葉たちのやわらかいこと! おいしいこと!
 どんどん食べたぼくは、ある日、自分のからだがほかのアオムシたちよりも、うんと大きくなっていることに気がついた。
 そして、思ったんだ。
「ぼくは、いつまでもこんなところにいてはいけない」
 旅をしよう、と思った。
 どこかに、ぼくの目的地があるような気がしたんだ。


「でね、ここに来ちゃった、てわけ」
 ニッコリ笑ってアオムシは、コップを差し出しました。
 シンヤがおかわりの水を入れてわたすと、また、ぐぐぐ……と一気に飲んで、言いました。
「ねえ、ぼく、ここでサナギになってもいいかな」


 だからシンヤの病室には、シンヤの大きさほどもあるでっかいサナギがいます。
 なぜか、ママも看護婦さんもお医者さんも、だれもサナギを見ません。見えていないのかもしれません。
 でも、シンヤには見えるし、さわれるのです。
 シンヤは毎日、アオムシの話を思い出しながら、そっとサナギをなでてやります。
 ときどきサナギは、返事をするようにピクッと動きます。
 シンヤはサナギをなでながら、あることを決意しました。
 その次の朝。
 シンヤは、めりめりめりっという妙な音で目を覚ましました。
 ブラインドの透き間からさす朝の光に照らされて、サナギに割れ目ができているのが見えます。
 中からアオムシだったやつが、ゆっくりゆっくりと出てきました。
 そいつは、ゆっくりゆっくりと真っ白い羽を広げています。
 そして最後に、うーん、と大きく伸びをしました。
「ほら、モンシロチョウだったろ」
 と、そいつは言いました。
「うん、すごいや」
 うなずくシンヤにモンシロチョウは、
「じゃ、ぼくは行くよ。どうもありがとう」
 と言います。シンヤがおどろいて、
「え、もう行っちゃうの?」
 ときくと、
「だって、おなかがぺっこぺこなんだもの。ぼくのからだに合うような、大きな花を見つけなきゃ。ぼくのおなかがいっぱいになるくらい、たくさんミツのある花をね」
「——そっか。たいへんだね」
「たいへん? ちっとも。わくわくするよ!」
 それからモンシロチョウは、やさしい声で言いました。
「行くよ。キミももう決めたんだろう?」
 シンヤが大きくうなずくと、
「おたがい、がんばろうな」
 と言って、ぶわっとその羽を広げ、朝の海に飛び立って行きました。
 その後ろ姿を見送りながら、シンヤは、
「あしたから学校へ行こう。いや、今日からでもいいな」
 と、つぶやきました。
「ちょっとくらいいじめられたからって逃げてばっかりじゃつまらないものね。みんなどんな顔するかなぁ。わくわくするよなあ!」

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